2012年12月31日月曜日

私が自由報道協会を辞めた理由


【1】自由報道協会の理事退任および退会について

 私、畠山理仁は2012年12月7日付で自由報道協会の理事を退任いたしました。また、同日付で自由報道協会への退会届けも提出いたしました。

 これまで協会への寄付、ボランティア、叱咤激励などを通じてご支援いただいた皆様に心から御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

 その一方で、お詫びしなければならないこともあります。それは私が理事を退任し、協会を退会した理由について、詳しい説明をしてこなかったことです。日々の生活、事実確認、また、心の整理にも時間がかかり、ここまでご報告が遅れてしまったことをお詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした。

 私は2011年1月27日の「自由報道協会(仮)」発足時から、2012年4月末までの間、事務局および広報担当者として協会の運営に関わってきました。それはひとえに自由報道協会の「崇高な理念」に共感していたからです。

 私はその間、協会を運営していくために、多くの方々に寄付のお願いをしてきました。時には私個人への寄付を申し出て下さる方もいらっしゃいましたが、個人宛ての寄付はすべてお断りしてきました。そして、そうした方々へは、協会への寄付をお願いしてきました。

 そのような態度を取ってきた私が協会の理事を退任し、また退会するのであれば、せめて個人的な理由だけでも説明するべきだと考えました。そこで、私に期待を寄せて下さった方々に対する謝罪の意味も込めて、退会に至った経緯を説明したいと思います。

【2】なぜ自由報道協会に参加したのか

 退会の経緯を語る前に、まず、なぜ私が自由報道協会に参加したのか、その理由を簡単に述べたいと思います。

 自由報道協会のスタートは、2011年1月27日に発足した「自由報道協会(仮)」でした。この団体を立ち上げる前には、上杉隆氏、神保哲生氏、渡部真氏、そして私の4人が集まり、「取材・報道するものであれば誰でも参加できる団体を立ち上げよう」という話をしました。

 私がこの団体に関わっていこうと思ったきっかけは、各省庁で開かれている「公人」の記者会見へのアクセスが、フリーランスの記者に対して閉ざされている現状を目の当たりにしてきたからです。

 本来であれば、各省庁の大臣・官僚など、「公人」の発言機会である記者会見への参加は、取材・報道に携わる者すべてに対して開かれるべきものだと私は考えていました。これは全国各地に存在する「記者クラブ」の主要構成メンバーである「日本新聞協会」の見解にも合致するものだと思います。

※参考:「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」
http://www.pressnet.or.jp/statement/report/060309_15.html

 私はこの「見解」を何度も読みました。その度に「理念は素晴らしい」と何度も唸りました。その気持ちは、今もまったく変わりません。

 しかし、私が各省庁の現場で目にした「記者クラブ」の現実は違いました。多くの省庁で開かれる記者会見の場で、フリーランスの記者たちは質問の機会を制限されたり、参加自体を断られることが多かったのです。

 私を含め、この状況を変えるために記者クラブに対して働きかけるフリーランスの記者たちが複数いました。また、記者クラブ内部からも、現状を変えようとした記者たちがいました。

 そのような働きかけにより、一部では平等なアクセスが実現しています。しかし、残念なことに、すべてが理想通りになったわけではありませんでした。

 そこで、これまで公的な記者会見の場から排除されてきた雑誌・インターネットメディア・フリーランスの記者らが集まり、「自らがオープンな記者会見を主催し、公的な情報への平等なアクセスを実現しよう」という話になったのです。それが「自由報道協会(仮)」のスタートでした。

 記者会見への参加は、業界団体への加盟、非加盟を問わず、取材・報道に携わる者であれば誰にでも認められる……。私はそうした自由報道協会発足当初の理念に深く共感してきたからこそ、自らの仕事を断りながらも、今年4月末まで協会の運営に協力してきたのです。

【3】自由報道協会が寄付を募った理由

 自由報道協会は記者クラブとは違い、各省庁内に賃料無料の記者会見室や作業スペースとしての記者室を持っていません。そのため記者会見を主催していくためには会場を確保する必要がありました。

 当然、会場費がかかります。当初は会員の持ち出しで会見を開催していましたが、協会の資金が底をつくことは目に見えていました。

 そこで協会の理念に賛同いただける方々からも寄付を受け付け、記者会見の運営費用(会場費・人件費等)に充てることになりました。私も協会の理念に共感していたため、少ない金額ながらも寄付をしてきました。

 その一方で、私は事務担当者として協会から報酬を受け取ってきました(2011年5月30日、8月8日、9月9日、9月22日、10月25日、11月25日、12月21日、2012年1月25日、2月27日、3月23日の計10回・各回10万円)。

 これは記者会見の開催準備、会場設営、申し入れ、社団法人および公益法人設立申請書類の作成、Webサイト更新、メーリングリストの管理、リーフレットのデザインなどの事務局運営、広報業務に対する報酬でした(基本的に交通費、ガソリン代、駐車場代などの手当はありません)。

 私自身、最初は報酬を受け取ることを断っていました。しかし、「実務を担当してきた者が報酬を受け取らなければ、後任を引き受ける者がいなくなる」との言葉を聞き、最終的には受け取ることに決めました。

 実際、協会での事務作業は泊まり込みになることも多く、ボランティアでできるレベルをはるかに超えていると感じていました。私はこの間、ほとんど記者としての仕事ができなかったのです。そのため、協会からの報酬がなければ、私自身の生活も立ち行かなくなっていたと思います。ご寄付をいただいた皆様には心から感謝申し上げたいと思います。

【4】私が事務局を1年以上も続けた理由

 私は有償での事務局業務を長く続けるつもりではありませんでした。私は記者であり、組織のマネジメントや事務作業などの経験がほとんどなかったからです。私よりも適した人材に早くバトンを渡すべきだと常々思っていました。

 ところが、事務局長を務めた人間が、2代続けて早々に退任してしまいました。事務担当者不在の状態を回避するため、私がやむなく引き受けたのです。

 引き受けることで記者活動が制約されることは明白でした。しかし、「協会を存続させるためには誰かがやらねばならない」と私は強く思い、事務局担当を続けたのです。

 誤解のないように断っておきます。協会員の考えは多種多様ですが、私個人は「記者クラブ」の存在意義を容認しています。私が問題視しているのは、記者クラブが自ら「開かれた存在であるべき」と謳いながら、「開かれていない」現実だけなのです。

 そのため自由報道協会のように「公的情報へのアクセス権が平等である組織」を存続させていくことには意味があると思いました。そして協会の存在に触発され、いつか記者クラブ側が「自ら開かれた存在」になってくれるのではないかと期待していました。私は協会を存続させることこそが「公に資することだ」と考え、協力してきたのです。

【5】公益法人申請について

 私は今でも、自由報道協会のような「記者による団体」の存在意義はあると思っています。とりわけ雑誌・インターネットメディア・フリーランス記者らの「窓口」としての機能は重要です。

 それは私自身が、官公庁、記者クラブなどの団体と「記者会見参加をめぐる交渉」をしてきた際、「フリーランスの記者には窓口がない」との理由で交渉のテーブルにさえつけないという経験をしてきたからです。

 日本新聞協会や日本雑誌協会などに所属していなくても、取材活動を続けている記者はたくさんいます。そうした取材者たちが自由に取材する権利を確保することで、多様な情報が世の中に流通することになります。最終的には情報の受け手にもメリットをもたらすものだと私は信じていました。

 また、自由報道協会は記者会見室の無償提供など、公的支援が期待できない団体です。会社員ではなく収入が不安定なフリーランスの会員も多いため、会の経済基盤は盤石とはいえません。そのため会の運営資金を寄付に頼らざるを得ない組織でした。

 財政基盤を安定させるために会員同士で話し合った結果、寄付者が税制上の優遇が受けられる「公益法人」を目指すことが決まりました。当時、事務局業務を担当していた私は、公益法人申請のための書類作成に関わることになりました。

【6】12月7日の自由報道協会理事会について

 私が自由報道協会の理事を辞めるきっかけとなったのは、2012年12月7日に代表理事が招集した臨時理事会です。この理事会では、2011年10月に出版された『自由報道協会が追った3・11』(扶桑社)の会計報告について、「公益社団法人自由報道協会」(代表理事・上杉隆氏/以下、「自由報道協会」)と「自由報道協会有志の会 被災地支援プロジェクト」(代表・島田健弘氏/以下、「有志の会」)との間で話し合いが持たれることになっていました。

 理事会が招集された理由は、「『有志の会』の会計報告がないために、疑念を抱いた人達からの問い合わせが別組織である『自由報道協会』事務局に多数寄せられ、事務局業務が麻痺するほど迷惑がかかっている」というものでした。

 たしかに、私個人のもとにも、この本で発生した印税(955,000円)の一部もしくは大半を、有志の会の会員が「つまんだ」のではないかという問い合わせを多数いただきました。

 しかし、そのような事実はありません。

 この日の理事会では「有志の会」の会計問題について話し合われましたが、その席上で自由報道協会の藤本順一理事(「有志の会」のメンバーではない)から、「混乱を招いている有志の会の一員が協会の理事を務めているのは問題ではないか。畠山氏には協会の理事を退任してもらうのがよいのではないか」との動議が出されました。

 当時、私は「自由報道協会」の理事であると同時に「有志の会」の一員でもありました。

 有志の会の会計報告が遅れていたことは事実です。私自身は「有志の会」の会計にタッチしてこなかったとはいえ、会計を任せきりにしてしまった責任があります。私が二つの団体に所属していることで誤解を招くのであれば、自由報道協会の理事を退任したほうがよいと判断し、事前に用意していた協会理事の退任届けをその場で提出しました。

 私が事前に理事の退任届けを用意していた理由は他にもありますが、それは別項「【10】会員個人の活動について」で後述したいと思います

【7】自由報道協会理事会で交わされた「覚書」について

 12月7日の理事会では、「自由報道協会」と「有志の会」の両代表の間で、次のような「覚書」が交わされました。

※覚書
http://bit.ly/Z4haOv

 私自身は覚書の内容に異議を唱えるつもりはありません。覚書の1にもある通り、「公益社団法人自由報道協会」の前身である「自由報道協会」(平成23年1月27日設立、暫定代表・上杉隆氏)と「有志の会」は、それぞれ別に法人設立届出をした団体であり、互いに別個独立した法人です。

 公益社団法人自由報道協会の前身である「自由報道協会」は設立趣意書にもある通り「メディアではない」と宣言していました。また、収益事業も行なわない方針でした。そのため、『自由報道協会が追った3・11』の執筆者たちが「有志の会」を組織し、書籍の製作費と印税の受け取り先となった経緯があります。そして、その印税で「ワークショップ」「公開討論会」「被災地アーカイブ」などの事業を「有志の会」主催で行なうことになっていました。

 しかし、同書の表紙に「自由報道協会・編」との文言を使ったことで、誤解を生んだことは否定できません。この点は「有志の会」の一員として、心からお詫び申し上げます。

【8】『自由報道協会が追った3・11』の製作費と印税について

 同書を制作した際、版元からは「有志の会」に対して、「原稿料等」という制作費(250,000円)と「印税」が別々の項目として支払われています。これは「有志の会」のメーリングリストを通じて、メンバー間で共有していた事項です。

 また、同書の制作にあたっては、25人の執筆者全員が自分の執筆原稿や写真素材を無償提供しています。ただし、執筆者の中には自身で執筆する物理的な時間がないなどの理由から、インタビュー原稿として無償提供する形もありました。そのような場合には、他のメンバーがインタビュー原稿の構成を手伝うなど「自分の無償提供原稿以外での労力」が発生しました。

 本来であれば、「25人全員の無償提供原稿」以外の部分の編集作業、インタビュー原稿の構成を「版元から支給される制作費を使って完全外注」できれば、よりスッキリとした形になっていたと思います。

 しかし、制作作期間が限られており、実際に支給された制作費では、編集料、デザイン費は賄えそうになく、メンバー間で「現実的に外注することは難しいだろう」という結論に至りました。そのため自分たちの労力を供出することで制作費を低く抑えて出版にこぎつけようとしたのです。

 もちろん執筆者の中からは「制作費も受け取るべきではない」との意見もありました。当初は私自身も受け取るつもりはありませんでした。

 しかし、他のメンバーがそれぞれ自分の時間を削り、他人の執筆ページの制作のために大変な思いをしながら編集作業に取り組んでいることも私は知っていました。仮に私が制作費を辞退すれば、彼らが受け取りづらくなってしまうのではないかと判断してしまいました。

 また、2011年12月13日には「有志の会」25人の執筆メンバー全員の意見を確認し、「24対1」の賛成多数で下記事項が決まりました。

・自分の原稿については、25人全員が無償で原稿や写真を提供する。
・自分の原稿以外に発生した作業に対しては、「原稿料」として支払われた金額から編集協力費を支払う。
・印税は全額「被災地支援プロジェクト」の予算に回す。

 私自身は、同書において、自分の原稿執筆部分(5ページ)を無償提供しました。そして上杉隆氏のインタビュー原稿(12ページ)については構成を担当することになりました。その構成作業は1ページにつき3千円、合計3万6千円です。私はそれを「編集協力費」として受け取りました。

 したがって、インターネット上などの情報を見て問い合わせされているような「印税をつまんだ」という事実はありません。これは会計士立ち会いのもと、臨時理事会で説明がなされています。

 なお、「有志の会」の会計報告は、代表の島田健弘氏より近日中になされる予定です。詳しくは島田氏の説明に任せますが、かいつまんで言えば、会計知識のなさから初歩的なミスはあったものの、不正な経理等はありませんでした。島田氏が説明した上で、なお皆さんから疑義が生じた場合には、私が知りうる限りのことは説明をしたいと思っています。

【9】覚書での「会計問題」との表記について

 12月7日の自由報道協会理事会で交わされた覚書では、「会計問題」との表現が使われています。その理由は、同書に【本書の印税は全額「被災地支援プロジェクト」にまわされます】との記述がありながら、外に見える活動があまりにも少なかったからだと私は認識しています。

 2012年中の「被災地支援プロジェクト」事業として外部に見えたのは、2012年2月11日に郡山で行なった公開討論会『アフター東日本大震災 被災地の未来を考える』、11月13日にβ版としてオープンした『東日本大震災証言アーカイブス』( http://bit.ly/Rq8u1m )、12月6日に行なったニコニコ生放送「【東日本大震災 証言アーカイブス】宮城県の仮設住宅を取材してきました!」( http://bit.ly/Uh66XG )の3つでした。そしてその間、会計報告がなされることはありませんでした。

 このことが結果として「有志の会」のメンバーや読者、一般の方々に疑念を抱かせてしまう原因となりました。私も「有志の会」の一員として、本当に申し訳なく思っています。

 また、「有志の会」とは別組織である「公益社団法人自由報道協会」に多数の問い合わせが寄せられ、事務局業務に支障をきたすほどの迷惑をしたことも事実です。私はこの点で協会に迷惑をかけたことを「会計問題」だと認識し、理事を退任することにしたのです。

【10】会員個人の活動について

 12月7日の理事会に参加するにあたり、私が事前に理事退任届を準備していたことは「【6】12月7日の自由報道協会理事会について」で前述した通りです。その理由は、12月7日の理事会開催について私個人が疑問を感じていたからでした。

 私は11月28日、自由報道協会事務局メンバーであった島田健弘氏を通じて、理事会開催の提案をしていました。それは10月頃から代表理事である上杉隆氏の活動がインターネット上で話題に上り、協会理事であった私のもとにも問い合わせが寄せられたからです。

 私は協会の理事として上杉氏本人から直接説明を聞きたいと考え、理事会を開いて説明をしてほしいと提案をしました。

 この時、インターネット上で話題になった上杉氏の活動とは、氏が執筆した2011年3月23日付『ダイヤモンド・オンライン』記事、および『国家の恥』(上杉隆著・ビジネス社・188ページ)で使用された「3月23日現在、原発事故への各国政府の対応」とする表(「著者調べ」とのクレジット付)に関するものでした。

 この表は、2011年3月19日付読売新聞朝刊に掲載された「海外避難リスト」に酷似しているとの指摘がありました。また、「オンライン上のデータでは、行末の空白スペースまで同じだった」との指摘もあったのです。

 自由報道協会定款第3条には、法人の「目的」として「ジャーナリスト相互の職業倫理の向上」が挙げられています。つまり「表が酷似している」と指摘された問題を放置すれば、協会にとって大きなマイナスになると私は考えました。

 もちろん、インターネット上の指摘だけで「盗用」と決めつけることはできません。当事者だけが知る事情があるかもしれないからです。また、上杉代表理事および上杉隆事務所は「調査を行い盗用の事実がないことを第三者立ち会いのもと確認した」「報告書を出します」と公式ホームページやツイッターで発信をしていました。

 それであれば私も詳細な説明を聞き、その結果を対外的に知らせたいと考えました。疑問点が解消されれば、協会への信頼が高まると考えたからです。

 しかし、私が理事会メンバーのメーリングリストに理事会開催を提案した際、他の理事からは「従来通り、会員個人の活動に協会が関与するべきではない」「あくまでも独立した存在として見守るべき」「事務局にも理事にも対応する余力がない」との反応が返ってきました。12人いる理事のうち、明確に反対意見を示したのは村上隆保氏、おしどりマコ氏、大貫康雄氏の三名の理事でした。

 確かに協会内では、これまでに「協会員個人の活動に関して協会としては関知しない」との立場が確認されてきました。それは会員それぞれが独立した存在の記者であり、お互いが切磋琢磨することによって相互の倫理向上を図ろう、という考えで決まってきたものでした。

 しかし、代表理事の問題は協会の信用に直結します。実際に、この件について事務局は多数の問い合わせを受けていましたし、代表理事の肩書きで活動をしている以上、本件について理事会に説明するべきだという意見を私のもとに寄せる会員も多くいました。私はその点も鑑みて、上杉氏本人から説明を聞く理事会を開催してほしいと提案したのです。

【11】定款29条「理事会は、代表理事が招集する」

 上杉氏自身が「報告書を出します」とすでに表明していたことから、私は上杉氏が代表理事の権限で理事会を招集し、説明がなされるものだと考えていました。しかし、実際には私が提案した議題について、上杉氏が理事会を招集することはありませんでした。

 自由報道協会定款第29条1項には「理事会は、代表理事が招集する」との規定があります。そのため、上杉代表が理事会を開かなかったことは、何ら規定に違反しているわけではありません。

 しかし、その一方で、「理事が理事会開催の要望を出すこと」が制限されているわけではありません。つまり、組織的には、上杉代表の行動も、私の提案も、どちらも問題がないと言えます。

 私が重く考えたのは、理事などの役職者の活動が協会の評価に大きく影響するという点です。あくまでも私個人の意見ですが、私は上杉代表に自ら説明をしてほしかったと思っています。

【12】理事会招集を要請した理由

 私は「理事会招集要望」をメーリングリストに流す前の10月31日、上杉氏と面会した際に「上杉さんの記事中にあった『原発事故への各国政府の対応』というリストが、読売新聞のリストと似ているとの指摘があります。この件について上杉さんは説明はしないのですか」と聞いています。

 それに対して上杉氏は「今、弁護士に見てもらっています。週明けには報告書を出せます」と回答しました。私は上杉氏本人に説明する意思があるのだと理解し、説明を待つことにしました。しかし、3週間が経過した11月20日時点でも、上杉氏からの報告はありませんでした。

 私が11月20日の週に理事会の招集を提案したのは、協会への信頼を高めたいと考えたからです。万が一、何らかの問題があった場合には、「個人の問題には関与しない」とする協会が処分を下さないまでも、会員相互の「注意」や「助言」によって、何らかの自浄作用が働く組織でなければならないと考えていたからです。そのため、11月28日の夜には再度、上杉氏本人に「リストの問題で説明はしないのですか」と聞きました。

 すると上杉氏は「すでに裁判所に訴状を提出しています。裁判資料は誰でも閲覧できます」と回答しました。私は上杉氏氏自身が自分の口で説明しないということに少し落胆しましたが、11月30日には東京地方裁判所に出向き、上杉氏の民事訴訟の訴状を閲覧しています。

【13】リストの問題について

 上杉氏の「リスト」をめぐる件については、NHNジャパン、アゴラ研究所、池田信夫氏の3者に対して、上杉氏が名誉毀損訴訟を提起しています。私が閲覧したのはその訴状ですが、私が読む限り、上杉氏が読売新聞記事の配信時刻(2011年3月19日8時17分)より先に「リスト」を入手していた証拠は添付されていませんでした。

 訴状によると、上杉氏が「リスト」の情報提供者としているのは「D氏」です(訴状では実名)。そしてD氏の親族から上杉氏のもとにメールが届いたのは2011年3月19日午前11時5分であったと訴状は認めています。

 したがって、読売記事がD氏のリストを盗用したとか、読売記事が掲載されるまでに上杉氏がD氏のリストを入手していたという主張は成立しません。それは上杉氏自身も訴状で認めています。

 上杉氏は、D氏がリストを作成した手順について「自分を中心に息子や身内と協力して情報集約・分析を行なっている」との主張を盛り込んでいました。これは意味深長ではありますが、私は現段階で「盗用はなかった」と断言できるだけの材料を持っていません。だからこそ、上杉氏には自分自身の言葉で説明をしてほしいと思いました。

【14】退任届けを書こうと考え始めた時期

 私が理事の退任届けを書こうと考え始めたのは、12月3日のことでした。それは12月3日未明に、上杉代表から理事会招集の案内が届いたからです。その理事会の議題は私が求めていた「リスト」についてではなく、「有志の会」の会計報告についてのものでした。

 私個人の感想では、「協会の信用を揺るがした」という点では、「リスト」も「有志の会の会計報告の遅れ」も違いはないと思っています。しかし、定款29条により、理事会を招集できるのは「代表理事」だけです。

 私はこのことに気づいた時点で、大きな責任を感じました。理事は定例の理事会であれば発言の機会があります。しかし、緊急に招集する理事会の開催権限は、代表理事に委ねられる仕組みを私達が作ってしまっていたからです。
 理事会を数時間後に控えた12月7日未明、私は自らの責任を感じ、退任届けを書きました。

【15】会員を辞めた理由

 私は「情報への平等なアクセス権を保障する」という自由報道協会の理念には今も共感しています。ですから会員として協会に残る選択肢もあると考えていました。

 しかし、協会発足から2年近くもの間、「自由報道協会」の会員であることが私にとって大きな精神的負担になっていました。特に広報担当としての期間が長かった私には、今年4月に任を解かれた後も協会に関する問い合わせが多く寄せられていたのです。

 たしかに私は多くの方々に寄付をお願いしてきました。そのため、協会についての質問があれば、自分でわかる範囲のことを、自分の権限を超えない範囲で、なるべく誠実に答えようとしてきました。

 しかし、ある時期からは、私個人の許容量を超えた他の協会員のことについても、私宛に問い合わせが来ることが増えました。

 自由報道協会は、それぞれが独立した存在として非営利の活動を行なう法人です。そのため会員の協会への関わり方は千差万別です。本来であれば、私が他の協会員のことで思い悩む必要はありません。説明するべきなのは「議題の俎上に上げられている本人」であり、「協会員の誰か」ではないからです。

 ただし、自由報道協会の「目的」には「ジャーナリスト相互の職業倫理の向上」が謳われています。そのため私個人としては「協会員の自由すぎる言動を放置していいのか」という思いがありました。また、同様の批判が一般の方々から寄せられることもありました。

 これまで述べてきたように、私は協会の運営に長く関わってきた一人です。そのため、そうした批判の声には心穏やかではない日々が続きました。協会の理念を世間に理解してもらうためにも、何とかできないだろうか。私は個人的にいつもそう考えていました。

 協会の理念は素晴らしい。しかし、会員の言動が良きにつけ悪しきにつけ注目を集めれば、結果として「会員の評価」が「会の評価」に影響を及ぼす可能性があります。いくら「自由報道協会はメディアではない」と内部の人間が力説しても、外部からは理解されないのではないか。私はその点を心配していました。

「協会としては個人の活動に関知しない」という方針であるため、思い悩みました。その結果、私が個人的に説明を求めたり、公開イベントの場などで説明を求めたりしてきました。それは特定の人物を助けるためではなく、「協会に自浄作用が全くないわけではない」ことを、世の中に知らせたいと個人的に思っていたからです。

 しかし、私の力不足により、思うような成果を出すことはできませんでした。私が会員の誰かを明確に批判するのではなく、まずは説明を求めようとした行為が「単なるお追従」と見られて逆効果だったこともあったと思います。

 また、私のそうした行為が、会員に不快な思いをさせてしまったこともあったかと思います。ただただ私の非力を恥じるばかりです。本当に申し訳ありませんでした。

 これまで私は協会の理念に共感し、できるだけの協力はしてきたつもりです。しかし、昨今の協会が、「ジャーナリスト相互の職業倫理の向上」に役立っているかと問われれば、私個人は明快に答えることができなくなってしまいました。

 私は自由報道協会に当初より関わってきたものとして、今の事態を憂慮しています。私自身は協会の会員として、何か力になれないかと努力してきたつもりです。しかし、最後まで力不足で及びませんでした。

 私はその責任を取るためにも、協会を退会することにいたしました。精神面での疲弊とともに、経済的な面での疲弊も一因だったことも申し添えます。

 立ち上げから関わってきた団体を、志半ばで退会する無礼をお許し下さい。これまでご支援いただいた皆様、誠にありがとうございました。

以上

2012年12月3日月曜日

原発被災地からの立候補


松本さんの自宅
(津波で流された楢葉町の松本氏自宅)

「東日本大震災から二年近く経ちます。しかし、その間、福島の警戒区域にはほとんど国会議員が入りませんでした。
 被災地の仮設住宅には、一人暮らしの老人もたくさんいます。私の知っている84歳のおばあさんは、60歳の息子が倒れ、一人で頑張っている。こういう人達をどうやって救ったらいいのか。対応を考えて地域の声を考えなければいけない。それには現地の声を国政に伝える人間が必要です。私はそういう思いで立ちました」

 2012年12月3日、福島県双葉郡楢葉町の町議を勤めていた松本喜一(まつもときいち)氏は、同日付で楢葉町議を辞職。いわき市役所内の記者会見で、福島五区から立候補(日本未来の党公認)することを明らかにした。

松本喜一さん
(松本喜一氏)

「(昨年12月16日に)野田さんが原発事故の収束宣言をしたが、私は事故前から原発立地自治体の町議として東京電力に説明を求めてきました。そのたびに東京電力は『5重の壁で守られている』と言ってきました。それがすべて吹き飛んだんです。コンピュータ制御もできない、中も覗けない。そんなものが4機もあって安全なのかという思いもある。原発の安全とはどういうことなのか。まったくものを心得ていないのか。そういうことを選挙中も訴えていきたいと思います」

 できたばかりの「日本未来の党」から出馬する理由については、

「嘉田知事の『卒原発』と考え方がマッチしたので出ることを決意した。原発は動かすと廃棄物が増えるので止める。法律を変えて燃料棒を取り出して、そこにガスコンバインドサイクルの発電装置を作れば有効利用できると考えている。これを選挙中も訴えて、当選できたら仲間を増やし、住民の声を大きくして、実現したいと考えている」

 と説明。また、自身の被災体験にも触れ、次のようにも述べた。

「私自身、福島県双葉郡楢葉町の山田浜地区で家を津波で流された。ここは東京電力福島第一原発から約18km。楢葉町に帰ろうかと言ったら、ほとんどの人がすぐには帰らないと言う。けれど、10年経ったら望郷の念が起きて帰りたいなということが起きると思う。健全な状態になったら必ず戻る。故郷を捨てないような施策をしていきたい。
 警戒区域、被災地の中に入ってみるとわかるが、楢葉町は震災直後と同じ状況です。8月10日に警戒区域が解除されて除染は進んでいるが、がれきは散乱し、田んぼには外来種の草が真っ黄色な華を咲かせている。あそこに住民を帰していいのか。
 原発の安全性が担保できないうちは帰るべきではない。そして防災計画の見直しもされていない。
 2011年3月12日の朝、楢葉町はいわきに向けて避難したが、通常は1時間で来るところを、36号線しか使えなかったので8時間もかかった。私は『高速道路に乗せて避難させろ』と言ったが、高速を使うという避難計画すらなかった。今の状態で帰れというなら、核シェルターを作って、短期で1か月暮らして避難できるという状態を作らなければダメだと思う」

セイタカアワダチソウ
(楢葉町内のビニールハウスを突き破って咲くセイタカアワダチソウ)

 国政に挑戦するかどうかは、ぎりぎりまで悩んだという。

「東日本大震災、原発事故から20か月が経ちますが、私は震災直後から現場に毎日入っていました。(警戒区域が設定された後は)中には許可証がなければ入っていけませんでしたが、避難しない人たちもいて、水や食料を届けていた。そういう中で国会議員と会って話すと『法律がなくて入れない』と言うんです。
 しかし、議員立法でやればお金がかからない。議員が警戒区域の中に入るのは法律を変えれば簡単で予算がかからない。これすら提案できない議員では困ると思ったのです」

 記者会見の場に現れた松本氏は、作業着にネクタイ姿。その服装を自身の言葉でこう説明した。

「私が作業服を着ているのは、『見えない敵』の放射能と戦っている、『戦時下にいる』という意識で、自分を戒めるためにこれを着ているんです。
 いまは、ほとんどの方がスーツを着ている。これが当たり前のような気になるが、実際、被災地は一つも変わっていない。今の政治家の方々に、『我々は法律を作る立場にいるんだ』と思い出してもらいたいのです」

 しかし、松本氏はふるさとに帰ることを決してあきらめたわけではない。

「私は『必ず帰れる』と思っています。その根拠は広島や長崎。広島も長崎も爆心地が帰れているので、必ず双葉地方も帰れると確信している。10年ぐらいのスパンで、政府で研究してお金出して、今も収束作業中の原発の安全も確保できればと考えています。
 第一原発は使えないので、第二原発のほうは卒原発にして、安全に燃料棒を抜いて、原子炉を取り外す。そして効率のいいガスコンバインド発電所に置き換えていきたいと考えている」

 今回の出馬は突然だったため、松本氏の選挙は手作りそのものだ。

「私は選対本部長も出納責任者も全部一人でやっている。一人で立候補して、一人で選挙戦も戦っていく。思い切った選挙をさせてもらう。これまでの町議選も全部手作りでやってきた。手続きからなにから全部一人でやってきた。今の政治家の人達も、一回くらいそういう手続を自分でしたほうがいいんじゃないですかね(笑)」

 現在もいわき市内の借り上げ住宅で避難生活を送る松本氏。復興の願いを込めて自身でオープンした「そば屋」を選挙事務所にするという。しかし、そのそば屋も選挙期間中は休業せざるをえない。

「本当にまだ一人で、選挙事務所には誰もいないけれど、自分一人でもやる。それが本当の選挙なんじゃないですかね」(松本氏)

 原発被災者がたった一人で始めた戦い。どんな結果になるだろうか。